ガンちゃん先生自己紹介
2010.01.21
こんにちは。
今日は「ガンちゃん先生」こと私、岩本昭三の自己紹介をいたします。
1950年、大阪生まれ
6歳(小学校1年生)までは親父が大阪「梅田」で大きな食堂を
していましたので、生意気なボンボンとして生活しておりました。
ところが、小学校1年生の秋も終わる頃、大火事に遭い、
住んでいた家、食堂共になくしてしまいました。
それをきっかけに、親父は倒産、母方の実家に近い、
大分県の別府へ夜逃げ同然、流されて来ました。
その後、親父は温泉地でも知られる別府の鉄輪で「五味八(ごみはち)」という
小さな食堂をはじめ、私は小学校2年生の時から
一人前の働き手として親父やおふくろを手伝っていました。
別府へ来た時には当然大阪弁でしたので
小学校に転校生として来たときには、言葉が違うなどと言って
だいぶいじめに遭ったものです。
悔しい思いをする中で、
親父のように料理人の道を進むか、
一生懸命勉強して焼肉をいっぱい食べれるような大人になるか(笑)、
などと小さいながらに真剣に考え、医者の道に進むことになりました。
その後、いろいろな病院で臨床医として働きながら
1990年、約60人の肝細胞ガン(HCC)の患者様を連れ、
岩本内科医院を開業し20年、現在に至ります。
今でも料理をすることは得意で
週末になると市場や近くの朝市に買い出しに行き、
料理を作ったりしております。
小さいながらの記憶、親父の味を覚えているのもあり、
医者になって居なかったら今頃、
親父のような料理人になっているんだろうなと思います。
せっかくなので次回はガンちゃん先生レシピ、
冬にはもってこいの「ヘルシー鍋」をご紹介したいと思います。
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1950年、大阪生まれ
6歳(小学校1年生)までは親父が大阪「梅田」で大きな食堂を
していましたので、生意気なボンボンとして生活しておりました。
ところが、小学校1年生の秋も終わる頃、大火事に遭い、
住んでいた家、食堂共になくしてしまいました。
それをきっかけに、親父は倒産、母方の実家に近い、
大分県の別府へ夜逃げ同然、流されて来ました。
その後、親父は温泉地でも知られる別府の鉄輪で「五味八(ごみはち)」という
小さな食堂をはじめ、私は小学校2年生の時から
一人前の働き手として親父やおふくろを手伝っていました。
別府へ来た時には当然大阪弁でしたので
小学校に転校生として来たときには、言葉が違うなどと言って
だいぶいじめに遭ったものです。
悔しい思いをする中で、
親父のように料理人の道を進むか、
一生懸命勉強して焼肉をいっぱい食べれるような大人になるか(笑)、
などと小さいながらに真剣に考え、医者の道に進むことになりました。
その後、いろいろな病院で臨床医として働きながら
1990年、約60人の肝細胞ガン(HCC)の患者様を連れ、
岩本内科医院を開業し20年、現在に至ります。
今でも料理をすることは得意で
週末になると市場や近くの朝市に買い出しに行き、
料理を作ったりしております。
小さいながらの記憶、親父の味を覚えているのもあり、
医者になって居なかったら今頃、
親父のような料理人になっているんだろうなと思います。
せっかくなので次回はガンちゃん先生レシピ、
冬にはもってこいの「ヘルシー鍋」をご紹介したいと思います。
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